昭和五十三年七月二十九日朝の御理解
御理解第六十五節
日柄方位は見るに及ばぬ。普請作事は使い勝手の良いのが良い家相じゃ。良い日柄と云うは、空に雲の無いほんぞらぬくい、自分に都合の良い日が良い日柄じゃ。いかに暦を見て、天赦日じゃと言うても風雨が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いは無いと思え。
日のお照らしなさる日に良い悪いは無いと云う事は、もう四十六時中日々が良い日だという意味ですよね。
人間は、雨が降ったり風が吹いたりすると、今日は不祥のお天気じゃと云うけれども、ね。
例えば、雨風が吹いてもやはり日のお照らしなさる日に悪い日は無い。お照しなさっていない日はありゃあしません。どんなに雨風の時だってそうですね。ですから何時もがいい日だ、良い日だと。自分に都合の良い日が良い日柄じゃあと云って居られます。
こういう所が、もう本当に教祖でなからなければ説き得られない御教えだと思うですね。こんな云うなら何と云うでしょうかね、その自由無碍な考え方と云うかね、何のこだわりも無い考え方と云うのはとても出来る事ではない。
日柄とか方位とか、例えば人間がでっち上げた一つの、ま学問でしょうけれども、そういうのものも全然無視して居られますね。もう大胆と云えば、まその百年も前の話にこういう御教を下さってあると云う事は、もうそれこそ前代未聞であり、実に破天荒な表現であったと思うです。
私くしは和賀心時代を世界にとか、ね。十三日やを世界の隅々に迄と、ね。そして、それが世界中にそれが広がって行く可能性というか、広がって行く、なら普遍性と云うものが有るんだと。世界中の人間誰一人だって、本当の助かりを得たいと願わない者はありません。
その何処の誰だって、云うならば助かる事の出来れる、理念が金光大神の御教えの中にある。今日の御教えなんかそうです、ね。この訳を良くいうて聞かせたらです、ね。
ほんとに、金光大神の信心の偉大さと、深淵さと云う事を感ぜずには居られない御教えでありますから、信心を頂いて居るなら、私くし共もその心にならなければ活けない、ね。
良い日の、悪い日のと無いんだと。云うならばそこに神様と、私くし共との交流関わり合いと云うものがいよいよ密に成って、人間の幸福と云うのは、私くしは神を信じる事が出来る事だと思うです。
しかも、神様のその働きそのものを、又信ずると云う事なんです。又その神様の働きを神様の働きとして、それを合掌して受けて行くという生き方です、ね。そこに人間の幸福が有るんです。
例えば、貧相病の無い世界というてもねいわゆるお金にも不自由しない、健康でもある、ね。家庭も円満だと、なら云う人がありますけれども、なら果たしてその人が本当に幸せかと。
そりゃもうやが上にでも金は貯めたい、ね。と云うてなら病気が無いとか争いが無いという事もぜんぜん無いではないけれども、神様の働きを信じるという事はね、神様を信ずるという事はね。天地との一つの交流の端を発すると云うならば、ねそこから私くし共は、入って行かなければ分らんのです。
天地の親神様が、私くし共の上に働きかけて下さる。それが雨の場合も有りゃあ風の場合もありゃあお天気の場合もある。
それを、一切有難いと受ける心なのです。受けてみて始めて分らせて頂く事であり、生まれて来る体験がです。なるほど神様の働きには一分一厘間違いが無いなあ、と云う事が信じれれるようになる。
その信じれれる心で、神様の私くしの前に起きてくる全ての事柄一切をです、ね。神様の御働きとしてそれを頂いていく。
損する事もありゃあ得する事もある。病気に成る事もありゃあ、争いが起るような事もあるけれども、その事を、私くし共が神様の働きとしてそれを受けて行く。
まあ受けて行けれる、ね。信ずる働きと信ずるそれを働きと信じたら、有難く受けて行かねばならない。
そこに現れて来る世界を、ま云うならば合楽の世界というか、ね。自由無碍な世界。云うならば、なる程日々、ね。私くし共が、天地の働きにケチを付ける事の無い、又ケチを付けんで済む生き方。人間の云うならば、幸福というのはね、そういう神様の働きを、神様を信じた生き方。神様の働きそのものを信じて受けれる生き方が身に付いた時に始めて、人間の幸福という事が言えるのじゃあ無いだろうか。
そこにはなら争いがあるかも知れん、金が無い時があるかも知れん。病気になる事があるかも知れんけれども、病気そのもの、その起きてくるその事態を、神様の働きとして受けるのですから、有るものは感謝の心だけしかない、ね。
人間の幸福というのは、どうでも今日ここに教祖がおっしゃておられる、一日の中に、ね。日のお照しなさる日に良い悪いは無いと思へと云うような心の状態が開けた時に、人間の幸であり自由無碍、自由活達な天地の働きを受けて、そこに自由無碍な自由活達なお陰も又頂けて来る。貧争病も無い云うならば世界が開けてくる、ね。
私くしは今朝方からそのお夢を頂いた。私くし共が夫婦で、今お食事の時に頂いておる、柿右衛門の茶碗が二つ揃うたのが御座居ましたので、これはもう観賞用に取って置ったんですけれども、次々と蓋が割れたり身が割れたりしてから、何か揃うとらにゃあ具合が悪かごたるから、そのお揃いのものを繁雄さんに出して、「こげんとが有りますよ」っち云うて出して来なさったから、なら勿体ないけれどもそれを使わしてもらおうと、この頃それに誰でもさわり手が無かごつなった。
割ったら大変と思うて。と云うようにね、大変高価な物ですし、名品なんです。
それを今私くし共が使っていますけに。皆が大事に大事にしますから、まお陰を頂いておる訳ですけれども。そのう、柿右衛門のその茶碗をですね、あの大きい、私くしのが大きい、家内のは小さい。図柄は同んなじですけれども、中にすとっとこう入るとこを頂いたんです。
だから、いかにも一つに見えるという感じです、ね。中に入ってしまうから、出せば二つになる、中に入れれば一つになる、どういう事だろうか。
夫婦は、云うならば一心同体と云うからそういう事であろうか、と思うて、今朝から起きる時の御祈念の時にその事を思い出して、神様にあのうその事を、こんな事を頂いたという、お届けをさせて頂きましたら、広ろーい云うなら歌舞伎座のようなあの舞台に、丁度歌舞伎なんかで裃を着けた役者さん達の、幹部なら幹部連中がずうっとあのう挨拶を、口上を申します所があります、ね。かならず皆が並んで口上を云う所、ね。
いわゆる裃を着て、そして女形は女形のふうをし、立役は立役の格好をして舞台上に並んで、いわゆる観衆の皆さんに、今日はようこそお出で頂ましたと。
今日はこういうような外題をこうこうと云うて挨拶をする、ああいう格好で、とてつもない大きな人が裃を着て、その横に小さい小さい私くしが裃をつけて、云うならば親子というよりも、ま親子ならまだまにかく、とてつもない大きいその親と、小さい小さいその私くしがやっぱ裃を着て、その観衆の方へ何か挨拶をして頭をこう下げておる所を御心眼に頂きました。
どういう事だろうかと私は思います、ね。云うならばです、私くし共が云うならば夫婦は一心同体であるように、ね。神様と私くし共がです、ね。云うならば、ね。一心同体になるという事、ね。神様と一つになるという事。
合楽理念はそこん所のお陰を頂く為のお話ばっかりなんです。云うならば神と氏子とが仲良うする信心。神と氏子とが一体になる。いわゆる合楽の世界です、ね。
相対するは天地の親神様なんです。相手は親神様。その一体になる合楽する、拝み合う。そこから素晴らしいお陰が生み出されてくる、ね。
そこでです、私くしは今日はそういうお陰を頂かなければ、今日の六十五節は本当な事では分らないと思うんです。
日のお照しなさる日に良い悪いは無いと思えと云うような、それが本当に分ると云う事は、神様と一つになっておらなければ実感として頂けない事になるのです、ね。自分の都合が先に出るのです。
そして都合の良い日が有ったり悪い日が有ったりする訳なんです。それを合楽では神ながらと申します、ね。
神ながらな生き方、それを合楽では誰でもが、天地金乃神と一体になれれる手立てをね。もう噛んで含めるように、見易うしかもそれを本気で稽古しようという事になったら有難うなって来、楽しゅうなって来る、ね。
勿論、これは極まりない限りのない事ですから、それに取り組んで進ませて頂くという事は、なら自分が進む事であり、自分がいよいよ豊になり大きゅうなる事であり、お陰も又それとおんなじに大きく豊に成って来るんですから、こんなに楽しゅう有難い事はない。
そげん、いつまでんせにゃんちゅう。限りなく大きく成って行けれる広がって行けれる、昨日の御理解じゃあないけっれどもね。八十八節ね。
その要の所はです、例えば私くし共がお食事ならお食事をさせて頂く時に、そのお食事がもう頂けれるという美味しいと思う、その健康の心がこんなもう有難い事はない。この食事が頂けれるという事は、もう何んと云う不思議な事じゃろうか。
人間じゃけん御飯食べるとは当たり前、と云ったような事ではもう信心はない。もう信心の要が崩れとる、ね。
この一椀の御飯の中にこめられておる神様の思いを思うたら、もう有難うして勿体のうして拝まにゃおれん。不平不足なんか云われん。御粗末だん出けん。
これが信心の要の所だと、ね。扇子がこうやって末広がりになっとるこの要の所がぐたぐたしておったんではね、親の代は繁昌しても子供の代に成ったらぐじゃぐじゃになる。昨日はそんな御理解でした、ね。
そういう所を私くし共が要としてです、ね。神様と一体になれれる手立てを、いよいよ密に、ね。深く広く頂かせて頂けれるようにならねばなりません、ね。神様と一体なんだ。
最近皆さんがお初穂なさる時に、今までは親先生と書きよった人がこの頃は親神様、親神様と書く。始めの間は天地の親神様にお供えしなさるとじゃろかと思いよったら、よう電話が掛かって来る、「親神様ですか」っち云うてからかかって来る。「はい私しは親神様ですよ」ちゃ云われんもんじゃけん「はいはい大坪ですよ」と。皆そうなんですこの頃、ね。
云うならば、私しと云う者はそれこそ小さい小さい、ねそれこそ一滴の水位いな、がたも無いかも知れませんけれども、神様と一体に成るというその精進がなされておるという意味だと思うんです。
木の葉の一滴くがね、云うならば山の小川に落ちる。それが大きな川に流れ込む。それがいよいよ大海に打ち出す、ね。それはひと滴くの水ではありましても、もう小川の時には小川の水と同んなじであり、川に打込んだらもう大きな川の一滴くであり、それが大海に打込んだらもうすでにそれは大海の一滴なのですから、同じなんです、ね。
ははあ、今日は私くし共があのうその柿右衛門作る所の、お湯呑みを二つ合わせて中へ入れて、いかにも一つのように見えたというのは、なら私くし共夫婦がなら、一心同体であるという事であると思わして頂きました。
そして、その柿右衛門の図柄からです、皆さんもいろいろ想像して見て下さい。その柿の色を出す為の柿右衛門の苦心さんたんと云うものがです。
私くし共が夫婦が、一体と見られ思われるだけのお陰を頂く為には、なら私くし共もその色を出す迄には苦心さんたんがあっておるという事なんです。
出せば二つが、けれども一つにしまえばもう一つである云うならば合楽の世界が誕生する為には、そういう私くし共夫婦の、まあ修行なら修行の結果が今日の合楽であると云う事。
そしてその意味をもっと深く頂いてまいりますと。今度は、私しと神様とが一体になっておる働きと云うものがです、ね。成り行きをいよいよ尊ばせて頂くと云う修行。
何んにもわからんでただ、成り行きが神様のもう神様の働きなんてそん時は知らなかった。
神様ちゃ、やっぱりこうして拝んでおる床の間に祠ってある神様が神様だと思うて居った。けれどももう修行のしょうがなくなって、あの修行をしたけれども、こんな修行もしたけれどもおかげにならん。
そこで起きて来るすべての事を黙って受けようという、受け方にならせて頂いた。そして四年半経った時に始めて、それが神様と一体と成れる手立てであった事が分った。だから、それを真の信心とはこれだと私くしが断言して皆さんに聞いてもらう事になった。
先日も、私くしがここでまいろいろ、それこそ黙って一切合切を受けるという生き方。もう本当に目に余るようなものでも、やっぱり蟹のお知らせを頂いてね。蟹の足が一本でも二本でも取れて、おったら、やっぱりお皿の上についでみて見苦しい。
だからそれもやっぱいるんだよ、と。頂いてはあそうかなあと思うたらその翌日でしたか、あの海老を頂いてね、海老の小さい足の所がありましょうが、こうあれを取り除く所を頂いたです。
こりゃあもう、私くし共が椛目時代の四年半の時にすでに頂いておった。 ほうれん草ならほうれん草そのものをです。引っこ抜いて来てそのままむしゃむしゃ食べて居ったのが四年半であった。じゃきじゃき云おうが、枯葉が付いて居ろうが髭が付いておろうが頂いた。
所が、それはあまりもの信心じゃ。髭はむしってしまえ、赤い葉は取ってしまえ。泥が付いて居るなら綺麗に洗ろうて、栄養に成る所だけを頂けよ、というのがその後の合楽の成り行きを大事にするのですから。
何もかも、だから合楽の修行生なら修行生の中にもです、こげんとは摘み切らにゃいかんというごたるとは、摘み切って捨てて行くと云うような働きも又起こって来る訳なんです。
先生はもうどげんしたっちゃ、どおん云いなさらんから。黙っちゃるけえと云うて横着な事を事をしょると摘み切らるるです。
やっぱり。それが今の合楽の成り行きを大切にするという事なんです。これは皆さんの上においてでもそうなんです。
何でん頂かんならんけんでち、栄養にもならん力にもならんごたるとを受けることは、受けてならないのです。むしろ、ね。それは四年半という私くしのま云うならばお試し時代であり、これが真の信心と分らせて頂くまでの修行であった事なのですから、ね。
そこにです、今日頂きます私くしが、天地と一体になれれる修行がそうして繰り返されて、今日まで続かせて頂いておると云うことがです、それは一滴の水がたもないかも知れんけれども、大海に入ったらもう大海の水である。天地の親神様と一体になれれる手立てというものが、なら合楽理念によって説かれるようになったと云う、ね。
だから、誰でも私くしだけが親神様じゃないのです。皆んなも親神様になれるんです、ね。親神様と一体に成ったらいいわけです。そして始めて分らせて頂くのが、実を云うたらこの六十五節だと思います。
成る程、日のお照しなさる、ね。日に良い悪いはないと思え、という事になって何時もが良い日、何時も有難い、そんなら雨もありゃあ風もあるけど、その雨とても風とてもやはり天地の働きであるとして、頂ける時に本当の人間の幸福はあるという事になります。
神様と一体に、一体になれれる手立て、ね。だから皆さんは時々一体になったり離れたりこうこうしとる。
一体になっとる時は何とも云えんリズム音。いわゆる天地の旋律が響いてくる聞こえて来る。そのリズムに乗って毎日生活をする。それを真の新人生活だとこう云っておる、ね。
そういう信心生活が出来ておる。だから着いたり離れたりで。だから離れておる時にゃ我情でいっぱいの時であり、我欲でいっぱいの時であり、云うなら実意を欠いた我が侭な、横着な時が欠けておるんです。
今日、私くしはある方の事をお願いさせて頂きよったら、ね。あのう悪だくみという事を頂きました。ははあ、これじゃあこの人がお陰頂けんはずだなあと思いました。決してそんな悪だくみをする様な人でもなければ信心も手篤う出来ている人なんです、ね。
けれども、この人が悪る企みしよる。これじゃお陰にならん、と私くしは思うたんです。
そして、まその悪る企みと云う事が、自分にも気付かんなりにです、ね。例えば、私くしが三十年も前に、親教会の四十年の記念祭の時に、ね。一年間私が一生懸命働きます。
私くしの体から生まれたものは、一切を、ね。今度の四十年祭に使わせて頂きます。と云うて神様にお願いをしてお商売を始めた、所が始めの間は置いた物を取るようにお陰を頂いたけれども、いよいよもう十二月の三日の大祭が、後一 と月という事に成った頃にはもうそっれが全部引掛かりになって来た、ね。もう赤字が出らんばっかりだった、ね。
それで、なら私くしがそれこそ山に篭ってでもこの、これだけ自分が真心いっぱいでしよるとに、ね。
神様はどういう事か神様の心が分らん。それこそ天地の心が知りたいと山に登った。そして山の中でひと修行さしてもらおうと思った、その時分はその程度のが信心だった。
そりゃあまあ、山の中腹まで云った時です、もうそれこそ一天俄かにかき曇ってから十一月というのに、それこそ全山が割れるような大きな雷さんがごろごろ鳴りました。
そうりで、雨が降り出したから、中腹にありますお滝場の篭り堂があります、中に駆け込んで行ってそこで二日三日、二晩と三日間だけそこで修行させてもらった。
お滝の水を頂きながら、大祓をあげて一生懸命御祈念した。そして一番最後の晩に休んだ時に、私くしがお夢を頂いた。
そのお夢が、大きな四角い井戸に、もうこうして見るとその井戸の底に、もう井戸一杯いというような鯉がこうやって泳いどった。そん時に、私くしがさあ今度の御大祭のお供えはこれだと心に叫ぶように思うた。
そういいながら、私くしはその四角い井戸の縁に立ってから、中に小便をまりよる所を頂いてから、小便まってしもうちから、しもうた、あこりゃあ不浄がついたと思うちから、目が覚めた、ね。
そして、後から分らして頂いた事はです。記念祭記念祭と云うて自分の働きの全部をです結集して、記念祭の御用に立たせて頂こうと思うて居る所迄は良かったけれども、ね。
それから後は、私くしに力を下さい。それから後は私くしの為に神様働いて下さい。と云う。
これが不浄であった事に気付かせて頂いて、無条件の心持ちに成らせて頂いたら、今まで十一ケ月で、十ケ月でどうにもならなかった、問題が解決して。こちらが願い通りのお陰を記念祭迄には頂きました。
という話が、私くしの話の中にあります。それも私くしは、云うならば神様の方から御覧になると、悪る企みであったという事が分ります。
神様に先ず使われる様なふうをしておいて、そして後は神様をこき使おうと思いよる。悪る企みです。こりゃあもう、ほんとに御用させて頂く者がです、いよいよもってこの悪る企みでは神様が聞いて下さらん、無条件にならなきゃいけん。
今日あたりの御理解を神と一体になると云う為にはね、どうしても我情やら我欲やら、悪る企みやらというものが取れなければ、神と一体になれない。神様が水ならこっちも水にならにゃあ。神様が油ならこっちも油にならなければ、ね。一体に混じ合わん、ね。
そういう所をです、私くしは今日は、皆さん自分の心の中に検討してです、本当にもうただ自分の我情我欲ばっかり。成程、我情我欲だけでもお陰をお取次頂いてもお陰頂きますよ。けれども神と一体になれると云うような事にはなって来ないという事ですよね。
どうぞ